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かげろう日誌。

日常生活や感想、LoLをはじめ趣味などについて細々と書いています。

恒例行事から”大人”を考える

考察

今日で3が日が終わります。私はまだ学生で、社会人の方と比べ休みの日はかなり多いほうだと思いますし、親戚界隈へのご挨拶もないことからいまいち季節感を覚えにくいように思います。

私の家族は親戚も少なく、また遊びに来る子供等もいないことから毎年静かな正月を過ごしています。来年以降は仕事納めで実家に帰ることになると思いますが、そうなるときっと正月に特別な思いを抱くようになるのかもしれません。

こうした物事に思いを馳せると、最近は肉体的・精神的に”大人になること”について考えてしまいます。まだ私は社会人として世の中に出ておらず、生活基盤を実家の援助に大きく依存するという意味では肉体的には成人でも、実質的には子供なのだと思います。

しかし二十歳を超えた人間は一般に成人として扱われます。ここに主観と客観の”大人のずれ”があることに気づきました。こうした状態や期間をマージナルマン、モラトリアムと呼ぶのかもしれません(マージナルマンとは大人と子供の境界にいる人を、この場合のモラトリアムとは大人になるまでの準備期間を指します)。

私は経済的に自立することで心身ともに大人になることを、喜ばしくも寂しくも感じています。自分自身の裁量で生きていくことは困難であると思う一方で少しワクワクしますが、同時に私の時代というものが終わってしまったというような寂寥感に駆られます。

ふと、小学校や中学の卒業式等を思い出します。当事は定型句のごとく「将来への期待と不安」といったフレーズが多用されていたように思います。しかし当事のそれと現在私が感じている期待や不安というものは同一なようで異なるもののように感じます。それは恐らく私が歳を重ね、つたないながらも物を少しは知ってきたことで、社会に出るということの意味をより現実的に捉えるようになったからでしょう。「期待」として未知の可能性に胸を躍らせることよりも、「不安」として今日明日、果ては5年後10年後を生き抜くための具体的なプランを考えることを重たく捉えているのです。

心身ともに子供であった小中学生だったころは、今日やその先の未来に渡って自身の生活基盤が安定していることを信じて疑いませんでした。だから漠然とした新しい可能性に胸を躍らせ、その可能性について漠然とした不安も覚えるといった悩みを抱いたんだと今では思います。私がそれだけ恵まれた環境で育ったことの証左なのです。こうして振り返ると、やはり当時は青かった(生意気な表現でしょうか)と、私自身の成長として実感できます。

しかし私は今もなお”学生”であることに変わりはありません。人生の経験者の方々から見れば、まだまだ私は物を知らない「子供」に違いなく、今の私が感じていることも将来「大人」に近づいた私が振り返ってみても、恥ずかしくなるような物言いなのだと思います。少なくとも昔から今にかけて私が心身ともに前進しているのだと思いたいですし、将来に渡ってもこの前進が続くよう努めたいと思います。

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