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かげろう日誌。

日常生活や感想、LoLをはじめ趣味などについて細々と書いています。

過去の知り合いと私の付き合いについて

自己分析 考察

今日は自分の考えることについてつらつらと書いていきたいと思います。

先日、成人式について書きましたが、それを受けて人間関係についてもう少し掘り下げて考えていました。過去に知り合った関係を大切にしている人は少なくないと思いますが、私はそうではないようです。ないがしろにしたいというわけではないのですが、積極的に関係を温めていきたいだとか、一緒に何かをしたい、といった気持ちがあまり持てないところに原因があるように思います。

成人式後の同窓会で価値観の相違に強く気づかされました。中学時代の同窓会だったのですが、周りの多くは就職はもちろん、結婚・出産まで経験している人も多く、学生の私とは住む次元が大きく異なっていました。普段の私であれば、こうした別世界の話というのは興味深く向き合えるのですが、このときは違いました。

同窓会というのは不思議な空間です。参加者の誰もが今現在の状況は当時のそれと大きく異なっているにも関わらず、会場の人間関係は中学生当時のものがそのまま再現されるのです。つまり現在社会人として大成功していたような人でも、中学生当時ぱっとしなかった子は同窓会においてぱっとしない人として扱われる…といった空気です。なんだかその場の雰囲気に呑まれてしまい、客観的な視点で楽しむことは私にはどうにもできませんでした。

いわゆるスクールカーストのようなパワーバランスの関係は学校に限らず人間社会において少なからず生じるものですが、子供時代の学校ではこの傾向はより顕著に現れるように思います。当時のアンバランスな力関係のまま、成長した人々が集いそのように振舞う様子は私をとても不安にさせるものでした。時間を置いたとしても気のおけない関係であり続けるというのは、人によっては歓迎すべきことなのかもしれません。しかし私にはあまりマッチしませんでした。これが彼らとの心理的距離による問題なのか、私自身の価値観の問題なのか、あるいはその両方なのでしょう。

一点、興味深いことに気づきました。在学中の成績がその人の価値形成に大きく関係しているのではないか、ということです(もちろん厳密には個々人の性格や能力等も関係すると思います)。私が見聞きした人は少ないサンプルではありますが、その中では明確に差異がありました。具体的には成績の低い人ほど犯罪自慢等に走るきらいがありました。同じようにハジけている人がいたとしてもそのベクトルが異なっているのです。きっとこの背景には進学校ほどハジける余裕が少ないだとか、勉強にコストを裂かない分いろいろな遊びを経験しているだとか、様々な理由があることと思います。どちらがよいという話ではありませんが、中学校卒業後の進路がその後の人生に与える影響は明らかのように思いますので、例えば自身が子を持つ親であるならば、教育にかけるコストを子供の人生の指針決定という観点から検討するのは十分意味があるように思います。

このようにタイプが異なる環境にいたことで、私は同窓会に出席してありながら強い孤独感を覚えていました。彼らと話が合わず、うまくやれない自分や合わない周りにストレスを感じていました。なぜ我慢してこのような場にいなければならないのか、楽しめない人が会場にいることはそれだけで周りに迷惑をかけるのではないか…そのようなことを考えていました。

周りの人々は上手くやっていた(世渡り上手というより、元々仲がよくて同窓会以前にも集まっていた人が割りといたようでした)ことから、合わないとすれば私側に問題があるのだと思います。私が地元を離れることを検討するきっかけになったのはこのときからです。特段いやな目にあったというわけではありませんが、「できて当然」の旧交を温める活動をしている多くの知人を前にすると、それができていない私は人として欠陥があるのではないかと考えてしまうからです。ですので「私」を知らない土地に行くことでこの気持ちを払拭できるように思っていました。しかし今思えば根本的な部分である私の内面が改善されていないことから、どこにいっても似たような思いをすることになるのだと思います。この点については今後の私の課題になるでしょう。

ともあれ、子供時代を共にした関係と酒を交わすという経験はできました。同窓会への出席そのものは先日に記事に書いたよう後悔はしていませんし、ほかの人にも勧められるものだと考えています。私のように仲がよい人が極端にいない等の理由がなければ、7割がた楽しい時間を過ごせることと思います。