かげろう日誌。

日常生活や感想、LoLをはじめ趣味などについて細々と書いています。

惣菜って何だろう

今日は少し遠出をして郊外にある道の駅に立ち寄り、そこで昼食となるしょうが焼き弁当を購入しました。地元のおばちゃんが運営するような手作りのお弁当ですが、プラケースに貼られた品名が「惣菜」となっていることに気づきました。

「惣菜」と言われるとスーパーで売っているコロッケなどのおかずを連想します。ではなぜ弁当に惣菜という呼び名がついているのでしょう。気になったので簡単に調べることにしました。

 

今の時代は便利です。PCに疑問を投げると大体のことには答えが返ってきます。「惣菜 定義」などで検索すると、一般社団法人 日本惣菜協会と言う組織のHPが一番目にヒットしました。

HPによると、この組織は1977年より日本の惣菜(含企業)・食文化について社会に貢献せんと活躍する由緒正しい会であるようです。同HPで惣菜の定義について触れられていますが、この会が独自に惣菜を定義したものと、厚生省環境衛生局食品衛生課の定義の2種類が記載されていました。

せっかくですので、その両方を引用することにします。

------------------------------以下引用--------------------------------

日本惣菜協会では「惣菜」の定義を次の通り決めています。
惣菜とは、そのまま食事として食べられる状態に調理されて販売されるもので家庭、職場、屋外などに持ち帰って、調理加熱されることなく食べられる、次に示す比較的消費期限の短い調理済食品をいう。
ただし、容器包装後低温殺菌処理され、冷蔵にて1カ月程度の日持ちする調理済包装食品も含む。(調理済冷凍食品、レトルト食品〈包装後加熱調理殺菌食品を含む〉など比較的保存性の高い食品は含まれない。)
調理済食品については「弁当及びそうざいの衛生規範」に定義されている「そうざい」および「弁当」並びに「惣菜白書」の「惣菜の分類」に示されるものとする。

 1、「弁当及びそうざいの衛生規範」(昭和54年6月29日 環食第161号厚生省環境衛生局食品衛生課長通達)には以下のように定義されています。
「そうざい」の定義
通常、副食物として供される食品であって、次に掲げるものをいう。
①煮物:煮しめ、甘露煮、湯煮、うま煮、煮豆等
②焼物:いため物、串焼、網焼、ホイル焼、かば焼等
③揚物:空揚、天ぷら、フライ等
④蒸し物:しゅうまい、茶わん蒸し等
⑤和え物:胡麻あえ、サラダ等
⑥酢の物:酢れんこん、たこの酢の物等「弁当」の定義
主食又は主食と副食物を容器包装又は器具に詰め、そのままで摂食できるようにしたもので、
次に掲げるものをいう。
幕の内弁当等の○○弁当、おにぎり、かまめし、いなりずし、その他これに類する形態のもの
及び駅弁、仕出し弁当等。
-----------------------------引用終わり------------------------------

 

どちらの定義であっても、主食+副食物を容器につめてそのまま食べられるものであれば全て惣菜の定義を満たすようです。従って私の食べたお弁当も惣菜の区分に含まれるということでしょう。他愛もない素朴な疑問ではありますが、またひとつ賢くなったような気がします。

ところで、「一般社団法人」「厚生省」といった単語が出てきました。前者は組織の区分のひとつで、後者は食や健康に関連する国営機関のひとつであろうことはぼんやりとわかりますが、詳しくは何もわかりません。日常的に目や耳にする単語であっても全然知らないことばかりだと気づかされますね。また時間のあるときに調べてみたいと思います。

f:id:kagelow:20160118163340j:plain

過去の知り合いと私の付き合いについて

今日は自分の考えることについてつらつらと書いていきたいと思います。

先日、成人式について書きましたが、それを受けて人間関係についてもう少し掘り下げて考えていました。過去に知り合った関係を大切にしている人は少なくないと思いますが、私はそうではないようです。ないがしろにしたいというわけではないのですが、積極的に関係を温めていきたいだとか、一緒に何かをしたい、といった気持ちがあまり持てないところに原因があるように思います。

成人式後の同窓会で価値観の相違に強く気づかされました。中学時代の同窓会だったのですが、周りの多くは就職はもちろん、結婚・出産まで経験している人も多く、学生の私とは住む次元が大きく異なっていました。普段の私であれば、こうした別世界の話というのは興味深く向き合えるのですが、このときは違いました。

同窓会というのは不思議な空間です。参加者の誰もが今現在の状況は当時のそれと大きく異なっているにも関わらず、会場の人間関係は中学生当時のものがそのまま再現されるのです。つまり現在社会人として大成功していたような人でも、中学生当時ぱっとしなかった子は同窓会においてぱっとしない人として扱われる…といった空気です。なんだかその場の雰囲気に呑まれてしまい、客観的な視点で楽しむことは私にはどうにもできませんでした。

いわゆるスクールカーストのようなパワーバランスの関係は学校に限らず人間社会において少なからず生じるものですが、子供時代の学校ではこの傾向はより顕著に現れるように思います。当時のアンバランスな力関係のまま、成長した人々が集いそのように振舞う様子は私をとても不安にさせるものでした。時間を置いたとしても気のおけない関係であり続けるというのは、人によっては歓迎すべきことなのかもしれません。しかし私にはあまりマッチしませんでした。これが彼らとの心理的距離による問題なのか、私自身の価値観の問題なのか、あるいはその両方なのでしょう。

一点、興味深いことに気づきました。在学中の成績がその人の価値形成に大きく関係しているのではないか、ということです(もちろん厳密には個々人の性格や能力等も関係すると思います)。私が見聞きした人は少ないサンプルではありますが、その中では明確に差異がありました。具体的には成績の低い人ほど犯罪自慢等に走るきらいがありました。同じようにハジけている人がいたとしてもそのベクトルが異なっているのです。きっとこの背景には進学校ほどハジける余裕が少ないだとか、勉強にコストを裂かない分いろいろな遊びを経験しているだとか、様々な理由があることと思います。どちらがよいという話ではありませんが、中学校卒業後の進路がその後の人生に与える影響は明らかのように思いますので、例えば自身が子を持つ親であるならば、教育にかけるコストを子供の人生の指針決定という観点から検討するのは十分意味があるように思います。

このようにタイプが異なる環境にいたことで、私は同窓会に出席してありながら強い孤独感を覚えていました。彼らと話が合わず、うまくやれない自分や合わない周りにストレスを感じていました。なぜ我慢してこのような場にいなければならないのか、楽しめない人が会場にいることはそれだけで周りに迷惑をかけるのではないか…そのようなことを考えていました。

周りの人々は上手くやっていた(世渡り上手というより、元々仲がよくて同窓会以前にも集まっていた人が割りといたようでした)ことから、合わないとすれば私側に問題があるのだと思います。私が地元を離れることを検討するきっかけになったのはこのときからです。特段いやな目にあったというわけではありませんが、「できて当然」の旧交を温める活動をしている多くの知人を前にすると、それができていない私は人として欠陥があるのではないかと考えてしまうからです。ですので「私」を知らない土地に行くことでこの気持ちを払拭できるように思っていました。しかし今思えば根本的な部分である私の内面が改善されていないことから、どこにいっても似たような思いをすることになるのだと思います。この点については今後の私の課題になるでしょう。

ともあれ、子供時代を共にした関係と酒を交わすという経験はできました。同窓会への出席そのものは先日に記事に書いたよう後悔はしていませんし、ほかの人にも勧められるものだと考えています。私のように仲がよい人が極端にいない等の理由がなければ、7割がた楽しい時間を過ごせることと思います。

 

成人式を振り返る 行くべきか、何を準備するべきか

今日は成人の日ではありませんが、多くの地方で成人式を行っているようです。新成人の皆様、おめでとうございます。心なしか街中の雰囲気も少し浮ついているように思います。この季節は一部の方がハメをはずしすぎて問題視されるのももはや風物詩ですよね。

さて、今日は成人式という観点から私の経験を振り返りつつタイトルの問いについても考えていきたいと思います。

f:id:kagelow:20160110191942p:plain

 

続きを読む

約束のドタキャンから思いを馳せる

ドタキャンという言葉をご存知の方は多いことと思います。「土壇場にキャンセル」の略語で、直前になって予定をキャンセルする行為を指します。ドタキャンをしてしまった、されてしまったという経験は誰しもあるのではないでしょうか。

かく言う私も、先日ドタキャンを食らってしまいました。理由を聞いてみると寝坊とのこと。事故や病気等でなくてよかったです。寝坊は誰にでもあることですし、素直に謝ってくれたということもあって、私は特に追求もせず良しとしました。

卒業論文に向けた研究が本格化するに従って私の生活は「研究・息抜き・寝る」のルーチンとなりつつあり、そもそも予定が立つということ事態が稀でした。そんな折のドタキャンは苛立たしさのようなマイナスな感情より、まだ遊びまわっていたころを思い出して少し懐かしくもなります。

そんなドタキャンから思いを馳せて、なぜドタキャンするのか、付き合うべき人間を選ぶことについて考えてみました。

 

f:id:kagelow:20160109175431j:plain

続きを読む

ソーシャルゲームとグラブルの炎上について考える

ソーシャルゲームという言葉を耳にしたことのある人は少なくないかと思います。たとえ言葉を知らなかったとしても、パズル&ドラゴンズ(パズドラ)やモンスターストライク(モンスト)、最近では紅白歌合戦にも出演したラブライブ!といったサービス名を聞けば、どういったものかイメージできる方は多いのではないでしょうか。そんなソーシャルゲームのひとつに、タイトルにもあるグランブルーファンタジー(グラブル)があります。周りでもプレイしている人の多い人気タイトルです。どうやら現在、このグラブルが炎上しているらしいですね。

私自身はソーシャルゲームという単語はよく耳にするのに対し、実際にはほとんどプレイしたことがないためいまいちよくわかっていませんでした。今回ちょうど良い機会ですので、ソーシャルゲームそのものから今回のグラブル炎上騒動まで簡単に調べてみることにしました。

 

f:id:kagelow:20160107215035j:plain

続きを読む

北朝鮮の水爆実験を受けて

本日、北朝鮮が水爆実験に成功したという発表がありました。私にとって”水爆実験”という単語は教科書の中でしか見た覚えがなく、すごく遠い世界の話のように思います。そもそも水爆とは何なのか、この成功発表にどのような意味があるのか、私はまったく知らないということに気づき、簡単ながら調べてみることにしました。

水爆は核兵器

水爆とは原爆と同じような核兵器のようです。私は専門外ですので詳しいことはわかりませんが、大まかな仕組みとしては、それぞれ核分裂核融合を発生させた際に変化する質量が熱や光といったエネルギーに変換されることで破壊力を生むとのことです。仕組みが違う以上、破壊力等も当然異なるのだと思いますがどちらも使用されれば致命的な被害が発生するという意味では威力についての議論は不要かと思います。

特に水爆では水素を変換する際に膨大な熱エネルギーが必要で、それを核分裂で生じるエネルギーで補うということだそうで、「水爆実験に成功した」ということは核兵器の開発・実験に成功したということを意味するのでしょう。また、すでに開発を行っているのであれば北朝鮮より東に位置する国々は少なからず放射能の影響を受けている可能性がある、ということも意味します(今なお原発事故への対処に追われる日本でこの心配をするのも若干違和感はありますが)。これは世間が大騒ぎするのも理解できます。

本当に実験をしたのか

仕組み上核反応を用いるわけですから、当然放射能も生じるはずです。

sp.m.reuters.co.jp

ところが、ロイターによると今のところ目立った放射線は観測されていないとのことで、真偽は不明ですが本当に実験を行ったかどうかは不明のようですね。ですがISISのテロをはじめ世界中で緊迫した状況が広がりつつある状況に変わりはなく、引き続き警戒が必要になるのかもしれません。

私たちの生活への影響

私たちの暮らす日本は北朝鮮と距離も近いですし、この発表の真偽がどうあれ、無関係ではいられないことと思います。しかし、現段階に限っていえば民間レベルでの目立った影響は少ないのではないかと考えます。日本は北朝鮮関連の輸出入に依存しているという話は聞きませんし、北朝鮮は資源国でもないため直接的な影響は一部産業を除きさほど大きくないのではないかと(希望的観測も含めて)思います。

しかし、過去にアメリカがイラクを侵攻した際、大量破壊兵器の保有の疑いを大儀に掲げていたのは有名な話です。今回の北朝鮮の発表を受けて、再び緊張が高まることが予想されますし、何かのきっかけで戦闘が行われる可能性も考えられます。そうなった場合、日本の地理的な問題だけでなく新安保条約もありますから、何らかの形で私たちが関わることになるのかもしれません。

平和は尊い

私は戦争を知らない世代に生まれ、人類史の中でも比較的平和な世を育ってきましたがこうして考えてみると、平和というものがいかに尊く、絶妙なバランスの上で生活が成り立っているかを思い知らされます。同じ人類同士、手を取り合って…とまではいかずとも互いを尊重しつつ共存できればと願ってやみません。

恒例行事から”大人”を考える

今日で3が日が終わります。私はまだ学生で、社会人の方と比べ休みの日はかなり多いほうだと思いますし、親戚界隈へのご挨拶もないことからいまいち季節感を覚えにくいように思います。

私の家族は親戚も少なく、また遊びに来る子供等もいないことから毎年静かな正月を過ごしています。来年以降は仕事納めで実家に帰ることになると思いますが、そうなるときっと正月に特別な思いを抱くようになるのかもしれません。

こうした物事に思いを馳せると、最近は肉体的・精神的に”大人になること”について考えてしまいます。まだ私は社会人として世の中に出ておらず、生活基盤を実家の援助に大きく依存するという意味では肉体的には成人でも、実質的には子供なのだと思います。

しかし二十歳を超えた人間は一般に成人として扱われます。ここに主観と客観の”大人のずれ”があることに気づきました。こうした状態や期間をマージナルマン、モラトリアムと呼ぶのかもしれません(マージナルマンとは大人と子供の境界にいる人を、この場合のモラトリアムとは大人になるまでの準備期間を指します)。

私は経済的に自立することで心身ともに大人になることを、喜ばしくも寂しくも感じています。自分自身の裁量で生きていくことは困難であると思う一方で少しワクワクしますが、同時に私の時代というものが終わってしまったというような寂寥感に駆られます。

ふと、小学校や中学の卒業式等を思い出します。当事は定型句のごとく「将来への期待と不安」といったフレーズが多用されていたように思います。しかし当事のそれと現在私が感じている期待や不安というものは同一なようで異なるもののように感じます。それは恐らく私が歳を重ね、つたないながらも物を少しは知ってきたことで、社会に出るということの意味をより現実的に捉えるようになったからでしょう。「期待」として未知の可能性に胸を躍らせることよりも、「不安」として今日明日、果ては5年後10年後を生き抜くための具体的なプランを考えることを重たく捉えているのです。

心身ともに子供であった小中学生だったころは、今日やその先の未来に渡って自身の生活基盤が安定していることを信じて疑いませんでした。だから漠然とした新しい可能性に胸を躍らせ、その可能性について漠然とした不安も覚えるといった悩みを抱いたんだと今では思います。私がそれだけ恵まれた環境で育ったことの証左なのです。こうして振り返ると、やはり当時は青かった(生意気な表現でしょうか)と、私自身の成長として実感できます。

しかし私は今もなお”学生”であることに変わりはありません。人生の経験者の方々から見れば、まだまだ私は物を知らない「子供」に違いなく、今の私が感じていることも将来「大人」に近づいた私が振り返ってみても、恥ずかしくなるような物言いなのだと思います。少なくとも昔から今にかけて私が心身ともに前進しているのだと思いたいですし、将来に渡ってもこの前進が続くよう努めたいと思います。

f:id:kagelow:20160103145943j:plain